たくさんの社会経験を積んだと思えばいい

新入社員のときにAVMによる脳出血を発症し、退職。行政書士の資格を取得し開業、就労支援事業所や職業能力開発校などを活用しながら、複数の職場を経験。

障害を乗り越えるという認識は持っていない。

生きている限り、共存していくもの、

そう思うようになり、

昔ほど、格好をつけなくなった。

 島本さんは22歳の就職直後に脳出血を発症し、その後、様々な働き方を積み重ねています。酸いも甘いも嚙み分けた職歴、そのご経験から、今、思うことを語って頂きました。

目次

若いからなんとかなると思っていた

―島本さんの職歴ですが、いわゆる就職氷河期世代ですね。

 ええ、2000年就職です。今思えば、影響はあったのでしょうが、割とスムーズに正社員になりました。

―就職してすぐに発病ですよね。

 働き始めて半年後に脳出血で倒れました。脳動静脈奇形という10万人に1人の割合と言われている脳血管奇形が元々ありました。

 資格取得のためのスクールで講師をしていて、講義中のこと、命に関わる状況でしたが、仕事に対する責任感が人一倍強く、また、そんな大病だとは思わなかったので、倒れた直後は、中断してしまった仕事のことが気がかりでした。命が危ない状態だったっていうのは、しばらく経った覚醒時に知りました。

―退院してからが大変だった?

 そうですね。私の場合、麻痺が強く残ったので、講師としては戻れない。会社も鬼ではないので、配置転換で事務的な仕事も検討してくれましたが、私が辞退し、退職しました。

―それは正しい選択だったと思われますか?

 正誤で言うと分かりません。正社員で残っていたら、様々な面で楽だったかもしれない。障害者として、ジョブチェンジしてイチからキャリアを築いていくのは、なかなかシビアです。

―「会社に戻れるならとりあえず戻れ」が、鉄板のアドバイスなのですが、そういうアドバイスは当時の医療陣からは全く聞いたことがないです。自分自身、若いから何とかなると考えていました。それからしばらくは、リハビリに専念しました。まだ20代で親も現役、実家に頼らせてもらおうと。だからゆっくり頑張ればいいやと思って。

起業は甘くなかった

―その後、行政書士の資格を。

 はい。退院後の迷走時代、公務員になろうと目標を定めました。範囲が広いペーパー試験をクリアしないといけないので、そのために、結構勉強をしましたが、筆記は通っても面接になかなか通らず、この時期は、公務員になれなかった。

 そこで、公務員試験と試験範囲が似ていた行政書士試験を模試的に受け、合格しました。転職活動が不調で、手持ちのカードを使って「えいや!」で開業。実家の一角で事務所を構えました。固定費はほぼかからない、ビギナーズラックで、まずまずの売り上げもゲット。なんとかなるかなと思いましたが、継続して自分の糧になるような売上げが立たず、まあ、失敗です。

 行政書士をやったことは、社会復帰ができたという点では、大きな一歩でした。ただ、生業にはできなかったので、挫折でもあります。

え?福祉サービス使ってないの?

―そのあとは?

 この時期に考え方の転換につながった大きな出来事がありました。開業後は、人脈を作るためにいろんな交流の場に出かけており、その中で福祉の方々とも知り合いました。彼らは、私があまりにも福祉サービスを使っていないことに驚いていました。つまり私は退院時に、医療から福祉に繋がるための情報を得られず、社会資源と無縁のまま地域生活を始めてしまったのです。

 その頃、再度企業で働こうと考えていた私は、就業・生活支援センター(通称:シュウポツ)を教えてもらいました。そういう社会資源にアクセスできたことが、大きな転換点になりました。

 早速、「シュウポツ」に相談に行き、そこで割と刺激的なアドバイスをいただきました。私の経歴を伝えたところ、「え、自営業をされててるの?そんな人は初めてです」と驚かれ、更に、再度企業で働きたいと就業意思を伝えたら、「かなり厳しいよ」とばっさり。つまり、組織から離れて10年以上のブランクがある人は、採用する側からすると、採用しづらいと言われたのです。

 そういう風に見えるのか…と、ちょっとショックでした。それまでは、自分のことを「身体障害はあるけど、デスクワークならでる。何なら障害以外の部分で勝負したら、その辺の人より優秀と思っていました。だから、私自身の市場価値が完全に変わっていることを突きつけられた感じでした。

組織人してのキャリアがない

 そこで、自分のスイッチが切り替わった。思っているような戦闘力は自分にはない。底辺からやるしかない。厳然たる事実として受け止め、そこに適応しようと覚悟を決めた。思い通りいかないからといって、感情的になったらかっこ悪いというのが、私の価値観なので、そこは、クールに論理的でいようと努めます。相談の結果、すぐに「組織で働いた実績がないなら、作りましょうという話になり、就労継続支援A型事業所を紹介してくれました。要は、面接対策のために、履歴書のお化粧をしようと。

―抵抗はなかった?

 プライドが邪魔をして福祉事業所を利用することに心理的抵抗があってもおかしくはないですが、現実問題として、就職するための実績はあった方がいい。そこを飛ばして一般企業の面接を受け、「大丈夫ですか?」と詰められ時に、「大丈夫」と証明する材料がないのはまずい。半年間でもいいから「電車通勤していました。無遅刻、無欠勤です」みたいなことをサラッと言えれば、説得力が全然違いますよね。あくまでも、A型は、ステップアップのため。そもそも、最低賃金ということもあって、週に6日通っても*フルタイムではない、月給8万「くらい。何だ、これ?」という思いもありました。

 そのころ、障害者職業能力開発校を紹介してもらいました。そこでは、一般並みのスキルアップができるうえ、A型の賃金の1.5倍以上の、訓練手当が支給されると知りました。これは行かない理由がない。受験を即決、合格して、訓練校にキャリアチェンジしました。

 振り返ってみると、ここまではぐっと屈んで、飛び上がるための時期で、ここから本格的に企業に復帰します。

―どのような就職活動を?

 ハローワークの求人に応募したり、合同面接会に参加するなどオーソドックスなものです。開発校のいいところは、学校にいながらにして紹介状を取り寄せられたり、学校指定の求人もあったりする点。就職活動をするには、おススメです。

シビアな外資系企業

 就活の結果、外資系の会社に障害者雇用で採用されました。外資らしく、障害者枠でも、結果を厳しく求められました。障害者だけを集めたセクションが社内にあり、チームリーダーも障害者。マネージャーにそれぞれの障害者のパフォーマンスを3か月ごとの契約更新面談で評価されました。その結果、契約更新がなされずにやめていく人も結構いました。そこの障害者の契約社員は契約を重ねても最長4年という規定での雇用契約を結びます。4年というのは、労働契約法のよると、5年を超えて契約社員として雇用された場合、労働者が雇用先に無期契約への転換を請求できるので、その前に契約社員を切るという運用が、そこだけでなく結構あるそうです。人件費は経営的に見ればコストという側面はあるので、仕方ないとは思いますが、働く側にはシビアです。

地方公務員になるも、契約でまた期限付き

 次は政令指定都市の地方公務員です。ただ、今回も契約更新が前提条件です。契約更新続きの人生です。就職氷河期を引き合いに出して、契約雇用のキャリアに一度身を置くと、そうなるよね、と自虐ネタにもしていますが、生まれは選べない。「ガチャ」ですよね。社会の仕組みの問題で、障害の有無関係なく、一度非正規ルートに入ると、戻りにくい構造があります。

―次にまた開発校に戻った?

これは戦術的な選択です。障害者職業能力開発校は、就職活動するにはいい環境であると一度行って分かった。学科を変えれば再入学できると知ったので、スキルアップのために通うことにしました。

 ちなみに、訓練手当は、契約の公務員として働いていた時の手取りと同じようなものでした。地方自治体だけでなく中央省庁にも、会計年度任用職員という私がなった身分の職員が相当数数いますが、賃金水準は低いです。

―そして再度、公務員を目指す?

 はい、今は、県の会計年度任用職員を現在まで続けています。今は若い頃に目指して叶わなかった正規職員を目指して昨年度再チャレンジもしました。最終面接まで進み、能力的にはOKだけど、職場に合うか、合わないかの相性の判断だったのか、届かず次点で不合格でした。人事はご縁、あるいは、需要と供給の問題でしかない。まあ、人間なので感情はありますし、見返してやる!とは思いますけど、必要以上に悔しがっても、結果が変わるわけじゃない、割り切って無駄な時間は浪費しません。

障害は乗り越えるものではなく

共存するもの

障害者が働くことについて思うこと

―キャリアを振り返ってどう思いますか?

 私は今47歳です。22歳から新卒で働くとしたら25年で、70歳まで働くとしたら、中間を少し過ぎたぐらいですか。就職してすぐに大病を発症して障害者になった。最初にいきなり致命的にも思える不意打ちを食らいました。その割にはよくやっていると思います。障害については、僕自身は乗り越える、乗り越えたという認識は持っていないし、そういう表現は今後もしないと思います。障害は生きている限り、共存していくものだと思っています。そう思うようになり、昔ほど、格好をつけなくなりました。

―障害者が働くために、どんな支援を望まれますか。

 組織で働くにしても、フリーランスとして働くにしてもミスマッチをなくす必要があると思います。障害の有無に関係なく、誰しも自分のことは見えにくいので、時には、厳しいことでも伝えてくれる人が周りにいることが何よりのサポートかもしれません。それから、自分は何がしたいのか?何ができるのか?と自分自身と向き合う時間も大切です。

 働き続けるには、障害への配慮は必要ですが、個人的には「配慮してもらえて当然」という考えは、全障害者にとってトータルではマイナスになるのではないかと考えています。所詮、どんな仕事でも、人と人の関係が大きい。「この人のためなら」と思ってもらえるような愛嬌は必要だろうし、配慮を求めるなら、「ここはこうだから、こうしてもらいたい」という根拠が必要ですよね。障害の種類や程度様々で配慮も画一的ではないから。この部分の言語化をサポートしてもらえる、交渉を手伝ってくれるようなサービスなり、制度があればいいですね。

障害者も変わる必要がある

―障害者雇用が広がっていくためには何が必要だと思いますか。

 一番の近道は社会の側(雇用側)に「こうして欲しい」と変わることを願うより先に、障害者側が変わることだと思います。

 具体的には「お金をいただく以上は、自分と働けば、そちらにこのようなメリットがあります」と堂々と言えるようなマインドを持つ。利益をもたらす仕事をしようとする障害者が増えれば、障害者の社会進出は自然と促進されるはずです、

 これからの日本は、労働力不足に向かいます。かつ雇用義務というアドバンテージが我ら障害者にはあり、この制度は簡単にはなくならないとみています。私は多様な障害者と知り合ってきましたが、障害者だから劣るとは思っていません。障害者は現状どちらかと言うと、言葉は悪いですが、買い叩かれています、つまり、リーズナブルな労働力だと思う。そのうえで、雇用側に対しては「雇ってあげないといけない存在」と見ずに、「どう活用できるか」真剣に共に考えて欲しい。真剣であれば実効性のある配慮も実現するでしょう。

 勿論、障害者全員が超優秀な訳ではないが、各自が自分にでき得ることをして向上する。それでもなお、こぼれ落ちてしまう人に政治の力で福祉を届けるのが筋です。

 私は不遇と言われる氷河期世代に就職して、就職1年目に障害者になるという、まあまあタフな人生になりましたが、可能性があるのに現状に甘んじるのは退屈だと思います。ですから、相手に要求するのは、自分がやれることをやってからでよいと考えています。

どんな人生にも傷はある

―若くして発症した人、そして家族へのメッセージをお願いします。

 どんなタイミングで障害者になっても、健常な人生より、不自由なことは多いし、先のことを考えたら、不安はあるに決まっています。

 はっきり言って、障害と生きるということは「傷だらけの人生」を歩むということです。でも、障害がなくても、傷のない人生は多分ないでしょう。

 逆に、障害があっても、生きていれば笑える瞬間はたくさんあります。そこを大切にできれば十分じゃないでしょうか。なったものをなかったことにはできないので、少しでも楽しみましょう。

 私は22歳から障害者ですが、親に「愚痴を言わないでくれて助かったし、よく笑うので、心配は徐々に薄れた」と言われる25年を過ごしてきました。これが唯一の正解ではないですが、いろいろあっても、とりあえず今を楽しもうとすることが大切だと思っています。

 若くして自分が、自分の子どもが、パートナーが、友人が障害者になったらそりゃ大ショックです。

 腫れ物に触るような時間もあるかもしれない。支えは必要ですが、本人には生きていく力がきっとあります。だから、心の部分はずっと変わらぬ関係を営んでほしいと思っています。

 時間はかかっていいと思います。10年単位で振り返ると、あの頃の悩みが消えていたりします。障害当事者も、ご家族をはじめとする周りの人も、自分が納得できる道を共に模索し、歩みましょう。幸い私も道中半ばです。

困りごと

退院時に福祉サービスの

説明がなかった

障害者の就労についての知識がないまま退院し、会社を退職する。相談先を知らないので、自助努力で仕事を探す。

健常者と変わらないと

思っていた

自身の障害について、認識が乏しいまま就職活動を始める。健常の時と同じマインドで就活をして、うまくいかない。

就労支援の制度を

知らない

起業したが継続が難しかった。会社員を目指すが、就労支援や障害者雇用の制度も知らない。

雇用が安定しない

能力開発校に通ったあとも、正規雇用の道は厳しい。労働者が雇用先に無期契約への転換を請求できる5年雇用継続の前に契約社員を切る職場もある。

工夫

安定雇用をめざし

スキルを身につける

公務員試験の勉強をはじめ、内容が類似する行政書士の資格を取得。障害者職業訓練校を利用し、スキルアップを図る。

就労支援の事業所に相談

アドバイスに従う

紹介された障害者就業・生活支援センターで「組織に属した経験が必要」と言われ、面接対策のために、A型就労支援継続支援事業所を利用開始。実績を作る。

障害者職業能力開発校で

訓練手当をもらいながら

スキルアップ

訓練中の生活費として、訓練手当を受給できる。就活も、休まずに、学校にいながらできる。

変えられないことで悩まない

感情より論理

障害がなくても、人生には、大変なことはたくさんある。なったものをなかったことにはできないので、障害とともに歩む人生を、少しでも楽しみたいと思う。

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