濱崎愛美さん

大阪府在住。19歳の時、原因不明の脳出血を発症。リハビリで回復するものの「失語症」の症状が残っってしまった。この経験を活かして誰かの力になりたいと思い看護師になった。脳障害になってしまった方に寄り添い共に歩み、普通の生活に戻るためのちょっとでも役立てたらと思っています。

わたしの経験が誰かの役に立つ!
看護師になって患者さんに寄り添いたいんです。

脳出血になってしまって、普通の同年代の女の子が楽しむようなことが楽しめない現状。周りに脳の病気のことを理解しているようで理解してもらえないことを、あきらめきれない自分もいるけど、年々あきらめかけている自分もいると話す愛美さん。若くして脳障害になった経験談と気持ちを話してくださいました。

目次

19歳で原因不明の脳出血を発症

現在は25歳。6年前の19歳の時に脳出血になりました。当時は警察官になりたくて、公務員試験を受けることができる専門学校に通っていました。その日は夏休み中で家にいたんです。数日前から頭が痛いなと思ってはいたんですが、まさか脳出血になっているなんて思ってもみませんでした。元々片頭痛を持っていたので、またそれだろうと思っていました。しかしその日は耐えられないくらいの痛

みが私を襲いました。何の薬を飲んでも効かなかったんです。私は普段なかなか病院に行くことがなかったんですが、家族に話したら病院に行こうとなりました。その日は土曜日。開いている病院も限られていました。おばあちゃんが知人から聞いていた、家からちょっと離れた脳神経外科の病院が開いていおり、「評判がいい」という話なので、そこまで車で連れて行ってもらいました。

その日は道が混んでいて、普通なら30分ほどでつくのが1時間ほどかかってしまいました。外来の受付まで歩いて行って、問診票を書いたところまで覚えているんですが、頭が痛すぎてそこからの記憶がなく、気が付いたらICUのベッドで寝ていました。そのまま緊急で手術になったそうなんです。どのくらい目を覚まさなかったのかも分からないですね。一般病棟に移る頃にやっと、自分が脳出血になったと理解ができました。それまでにもお医者さんや看護師さんから知らされていたのかもしれませんが、まったく覚えていないんです。

「失語症」の症状が出ていました。

しばらく寝たきりだったので、元の体力をつけるためにリハビリの中で階段を上ったり下りたりしていました。言葉のリハビリは小学生が言葉を覚えるような事をやっていました。カードに絵がかいていて、その名前や仕草を答えるんですけど、全部間違えているんです。そして覚えてもすぐに忘れてしまうんです。でもいつもニコニコしてるから、周囲の人たちは「すごく重症だね」と心配していたそうです。実際に「失語症」の症状が出ていたんですよね。私自身はわかってはいなかったんですけど。

 そこでこのままでは当時通っていた警察官になるための学校の授業についていけないから、復帰が難しいという風に話し合いました。後期の授業料も高いので払うのがもったいないという事もあり、専門学校をやめることにしました。

 ずっと警察官になりたかったので、あきらめられない自分もいました。その時は今後どうしていったらいいんだろうかと絶望もありましたが、このような病気を経験したからこそできる看護師という道も少しずつわいてきていました。

警察官をあきらめ新しい目標は「看護師」

警察官になる夢があきらめられない自分と、このような病気を経験したからこそできる看護師という夢の狭間でずいぶん葛藤しました。

 親戚に看護師が多くて、女性はほぼ看護師の仕事をしていたので、看護師になったらとよく誘われていました。それが看護師になるきっかけの一つでもあります。入院していた病棟の看護師さんたちもいろいろ助けてくれていたことあり、自然と看護師になるという目標になっていったんです。 でも実は正直言えば警察官になりたかったなと思うところも大きくて、でもこの経験のことを考えると、今の看護師になる道の方が意味があるのかなと思うし…。だから看護師になったほうが良かったと言い聞かせているところもあります。なので本当はまだ揺れてるところがあるのかもしれません。

今はそれほどではないので、生活に支障をきたすようなことはないんですが、発症後のしばらくは物の名前をほとんど忘れてしまっていました。文字も読めない状態でした。この状況ではあきらめざるを得なかったと思います。

手術後の症状が落ち着かず合計3回の手術

リハビリをしながらも症状がずっと落ち着かない状況でした。そのためにほかの病院に転院ができず、急性期の病棟に長く入院していました。そして結果的には、合わせて3回の手術をしたんです。

1回目は脳出血の手術で頭蓋骨の一部分を外したんですね。2回目は、頭蓋骨の一部を戻す手術ですね。でも頭蓋骨を入れたはいいけど、脳の中の水が漏れていたんです。それで頭の形が変わるほど腫れてしまって3回目の手術を受けました。「シャント」という管を頭から腰につなぐ手術をしたんです。このために起き上がることもできなくて、結局それで3か月ほど入院していることになりました。 19歳の女の子が入院してきたこともあり、他の入院しているおばあちゃんたちにすごくかわいがられていましたね。一緒にお話をしたり、一緒にDVDを見たり、一緒に本を読んだり、一緒に食事をしたりしていました。中でもおばあちゃんたちと一緒にやった折り紙は、頭と指先と使うのでいいリハビリになったと思います。入院していた病室は大部屋だったので、入れ替わりも早く、いろんなおばあちゃんとコミュニケーションをとっていましたね。この入院している期間はすごく楽しかったですね。シャントの手術をして、退院してからが、ものすごく大変でした。

実生活を過ごすことの難しさに直面!

ある日、外来で病院に行ったとき、だんだん頭が腫れだしてきたことがありました。もともとの主治医が他の病院に移ったこともあり、シャントの手術がとてもじゃないけどできないとなり、主治医が移った病院に紹介状を書いてもらい、手術を受けに行きました。

シャントの手術が終わり、頭にたまる水の処理ができるようにはなりました。でも頭痛がひどく続いていたんです。手術の傷口の痛みもありました。さらに頭の中の水を引き抜きすぎて頭痛がすることもあったんです。水を引き抜く調整がうまくいってなかったんですよね。引きすぎると脳圧が変わり脳にダメージがあるし、引けなかったら水がたまってしまう。非常に難しい調整なんですよ。なのでWパンチでよりひどくなっていた感じでしたね。 でもおよそ3か月間いた急性期病棟をやっと退院をする時がきました。他の入院患者のおばあちゃんたちよりも長く入院していたこともあり、看護師さんや職員の方たちみんなに「よかったね!」と送り出してもらえました。ここから他の病院に転院するのではなく、やっと自宅に帰れるという喜びが大きかったです。

自宅に帰ってからは、まだ手術跡の坊主頭だったこともあり、見た目がまずどうしようもない状態になっていたので、外に遊びに行くこともできませんでした。左側の頭もパンパンに腫れていたので、そのシルエットを見るたびに気分が下がる思いでした。坊主なので「なんでここに男の子がおるん?」って言われたこともありました。言葉もだいぶしゃべれるようになったとはいえ、つまりつまりだったし、まだ物の名前が思い出せない状態だったんです。だから実生活になじめなくて大変でしたね。頭の腫れのせいで頭痛がひどく、家でずっと横になっていました。トイレに行くことすら無理だったんです。何回か行こうと試してみて、行けるタイミングを図ってやっとトイレに行くことができました。お風呂も毎日は入れる体力もなかったんです。なにもかも痛みがましなタイミングを見てなんとか終わらせるという感じでした。「痛くないタイミング」はだいたい5分くらいですね。この間にさっと済ませることができるかが勝負でした。

ここまでで1話

「頭」は治ったけど今度は全身にキタ!

「シャント」で水を引き抜き、頭の方は安定してきたんです。でも次に身体に来ました。首も肩もすごく痛くて、起き上がることもできなかったんです。私の場合、シャントの管を頭に入れて、腰の所に流すというものです。寝ているといいんです。寝てる時は頭と足の高さが同じですよね。でも立ったり起き上がると、頭が上、腰が下の位置関係になってしまうので、水を抜く調整が変わってくるんです。なので動いて、頭の位置が変わっただけで激痛が走るんです。ちゃんと生活できるようになるのに半年ほど、そして完全に痛みが取れるのに1年ほどかかりました。一緒に住む家族には負担をかけたくなかったのでできるだけ自分で何とかするようにしていました。実は今もシャントが入ったままなんです。取ろうと思ったら取っても良いそうなんです。でも万が一また水がたまる可能性もあるし、取るにはまた手術が必要なので、身体の負担を考えて特にメリットがないのでこのまま生活をしています。

1年たったけど…。バイトが見つからない

頭と体の痛みが引き、家での生活も普通にできるようになりました。そろそろ新しい夢となった看護学校にも通いたいので、アルバイトを始めようと思いました。しかし1年たったとはいえ、坊主頭から髪の毛をのばしていたので、髪の毛がきれいに生えそろわずの状況。しかも手術跡のキズが結構目立っていたので、自分の容姿のことですごくしんどい思いをしました。

アルバイトの面接にいっても、この見た目で、仕事のシフトがある日でも、体調の良いときと悪いときもあるので、決められた時間働けるかどうかわからないと話すと当然のように不採用になっていました。雇い主からするとリスクしかありませんので、仕方ないのですが、不採用になるたびに傷つきましたね。

 そんな時、入院していた時に担当だった言語聴覚士の多田先生(この雑誌の主宰)が当時お友達とカフェを経営していらして、そこでバイトをしないかと誘っていただきました。私の病気のことも体調のこともすべて理解してくれているので安心して働くことができ、週3日くらいのペースで無理なく働いていました。そして夢の看護学校に行こうと準備をしていました。

でもしばらくすると、あの新型コロナウイルスの世界的な流行で、やむなくカフェが閉店に追い込まれることになってしまったんです。

世界を襲った「コロナ禍」なんと看護学校が始まらない?!

ここでジッとしてても何にも変わらない!

まだ自分の頭のこと、身体のことが全部分かった状態ではありませんでしたが、なんとか回復してきて、春から通いたい看護学校を見つけて、準備を進めていきました。この辺りでやっと少しずつ自信も出てきました。そして私はここでジッとしてても何にも変わらないと思って、前に進むことを考えていました。そして看護の専門学校に入学申し込みをし、春からの授業をまっていたんです。しかし2020年の春。新型コロナウイルスの世界的な拡大で、4月になっても入学式も授業も始まらなかったんです。オンラインでの授業が始まったのは5月に入ってからでした。

その当時、入学をしても授業の始まらない不安と世間の状況の変化を体感したので、ここでもジッとしていてはいけないと思い、いろいろ調べて奨学金制度を見つけ、それに応募しました。それはある大病院の奨学金を借りられる制度でした。3年間看護学校に通い、看護師の国家試験に合格し、卒業したら、その大病院で3年間務めると3年間の授業料を支払ってもらえる、しかも働くことで返還もしなくていいというもの。ですので私は看護学校に入学して、授業も始まってはいないのに、先に就職先だけは決まっている状況だったんです。でも看護師になることが大条件ですから、授業が始めってくれないと困る状況だったんですよね。しかし4月に入っても始まらない。ただただ待つしかありませんでした。

「忘れる事」は仕方ない「忘れないようにする」工夫

2020年5月に入り、やっとオンラインで授業がスタートしました。先生も生徒もオンラインに慣れていない状態でしたので、今までの授業のようにはいきませんでした。しかもそんな状況に加えて、私には後遺症として残っている「覚えられない」「忘れてしまう」というのが常にあります。何度もノートに書いてまとめたりして、忘れないようにする努力をしていきました。自分なりにノートにまとめても、そのまとめたことも自体も忘れてしまうので、何回も同じ内容のものを書いたり、パッと見てわかるところにメモを貼ったりして、工夫をしていました。「覚える」というよりか「見てわかる」ようにしていくことでだんだん覚えていくことができました。その後、自宅からのオンライン授業だけではなく、週何回かは学校に行って、生徒はみんな別々の教室に分かれて、オンラインでの授業を受けることもありましたね。オンラインって余計に頭に入ってきにくいじゃないですか。だからいろんな勉強の仕方を試したんです。でも私に合っていたのは、学校が配ってくれるプリントや国家試験の過去問題を何度も繰り返すというやり方でしたね。何度も繰り返しやることで、どんどん内容も覚えてくるし、間違っているものは間違っている理由をメモして覚える努力をしていきました。いろいろ問題を解いて、10回も20回も勉強していくと、被っている問題なども出てくるので、それで覚えていくことができましたね。でも正直言うとその場しのぎになっていることもありましたけど…。

実際に患者さんを前にしてプレッシャーを感じる

看護師の勉強で一番難しかったのはやはり覚える事でした。世の中では、新型コロナウイルスのワクチン接種が広まり、やっと実際に病院にいっての実習に行ける事になりました。臨床に出ると実際に患者さんを受け持つので責任重大でした。今までの自分の中にはなかった患者さんの命を預かる責任を感じましたね。私にとっては現場で患者さんやほかの職員さんとしゃべることも大変でした。友達だったらある程度ふわふわした感じでしゃべっても許してもらえるのですが、患者さんを相手に話すとなった時に、しっかりと話をしないといけないし、間違ったことを話してしまったら命に関わるので、ものすごくプレッシャーを感じました。

このようになんとか3年間通い、無事国家試験にも合格しました。現在は大阪の総合病院の整形外科の急性期病棟で看護師として働いています。

↑ ここまでで2話

ついに総合病院で働きはじめた!

 先ほどもお話しましたが、就職先の病院は奨学金を借りた総合病院です。私は脳出血以来、忘れっぽい事など自分の身体の事をしっかり話をして働くことになりました。病院側は問題ないと受け入れてくれたので安心して働きすことができました。

現在は看護師1年目。配属は整形外科にいます。でも本当はやはり自分の経験を活かせると考えていた脳神経外科に行きたかったんです。でも私は今も言葉がしゃべることができているようでしゃべれていない事が多いですね。病院では患者さんに伝えないといけないことがたくさんあるので、実際に「失語症」の方に接すると会話が成り立たないかもしれないと思いました。なので今の私にはまだ無理かもしれないと思い、整形外科を選びました。整形外科はでは元々健康な方が、ケガをして入院してくるケースがほとんどなので、会話がしっかりできる方を診ることが今の私にできる事なのかなと思って、こちらにしました。

実際に整形外科で働いてみて感じたことは、患者さんが元気になっていく過程がすごくわかりやすいんです。手術をしたらその次の日から起きて、どんどん歩けるようになっていく様子は、ゴールもわかりやすいし、回復の様子もわかりやすいので、それを見ていると、看護師としてのやりがいを感じやすいですね。

すごく要領が悪くなってしまいました

 世間では新型コロナウイルスが5類に移行になって、終息したイメージがありますが、病院の中ではまったく終わってはいなくて、クラスターを出してしまったりしているので、世の中のイメージ以上に注意をしながら対応しています。新型コロナだけじゃなくインフルエンザも院内で流行りだすと、患者さんの命に関わるので細心の注意を払っています。

 社会人になって責任感を求められるプレッシャーもあります。でも私は病前より要領が悪くなってしまったので、慣れるのがすごく遅いんですよね。病前はあれもこれも同時にちゃきちゃきできる人だったんです。物覚えもよかったし、何かを指示されたら、周りを見て、先を見て行動を起こすことができてたんです。生徒会もやっていたし、バイトも掛け持ちで3つもやっていました。

今はちょっとでも切羽詰まってしまったら、その1点しか見ることができなくなってしまう…。一つのことにしか集中できないし、その一つのことすら集中できないこともあったりして、全部が中途半端で終わってることがあります。それで結構周りに注意されることが多いんです。

 やはりそのことで悔しさを感じることが毎日あって、「なんでここまでできなくなったんだろう。」って6年たった今でも思います。

 ですが、2,3年前に比べるとできるようになってるんだろうと思います。実感はないけど、よくなっていると思い込むしかないと思います。

これからやっていきたいことは同じ病気の人の力になりたい

 最近、多田先生(この雑誌の主宰)に同じ病気になっても前向きに生活している人たちに会わせていただく機会が増えてきたんです。皆さんといろいろお話をさせていただいているんです。そこで私が考えるようになった事は、私自身こういった病気をした経験から、同じ病気の人たちの力になれることができたらいいなと思います。

 具体的に言うと、病気をして1年目だと当人は『何をどう相談していいかわからない』という事に直面します。病気に対する不安や未来の不安なども含めて精神的に追い詰められることがすごく多いんですね。そんな患者さんの話を聞いたりして、少しでも気持ちを楽にしてもらって、病気とこれからの生活とに前向きに付き合っていただけたらなと思っています。

私自身も自分の身体がどうなっているのかはっきり理解できていない状況だから、ああした方がいい、こうしたほうがいいというようなことは提案ができないんですけど、患者さんが普通の生活に少しでも早く戻れるお手伝いができたらいいなと思うようになりました。

若さゆえ、大切な恋人や友達をものすごく心配させてしまいました

 私が脳出血で手術をした時、交際してる恋人がいました。今はその人とは別れたんですけど、脳出血になった事実が「受け入れられなかった」と話していました。恋人もだし、幼馴染みも「頭が真っ白になった」と話していました。年齢的にも19歳では起こるはずがない病気だったので受け入れられないのは当然ですよね。私が生きるか死ぬかの状態だったので、なんとか生きて戻ってきてほしい、後遺症とかもうどうでもいいから、とにかく生きていてほしいと思ってくれていました。その恋人はしょっちゅう病院に来てくれていましたね。彼も当時大学生だったので、私のことで遊べないことが積み重なってきてしんどくなってしまったんでしょうね。最後は振られてしまいました。

病気を理解してるようで理解してもらえない苦悩

 当時はLINEのメッセージを読んでも全く理解ができない状況でした。

友達とのグループLINEでは、どんどんメッセージが積み重なっていき、流れていきますよね。それに追いついていくことができなくて、まったく返事を返すことができないでいました。そのことを多田先生に相談をしたら「いちいち見ないようにしておき。見るとつらくなるやろ」と言ってくれて、見ないようにしていた時期もありました。

 SNSやLINEでは私がメッセージを見てるだけだとお友達は「なんなの?」と思う事があるんですね。どうしようもなく既読スルーをしちゃってるんですけど、相手は納得できないこともあるんですよね。当時は文章が読めないから、何の話をしてるのか全く分かりませんので、返事の返しようもないんです。でもそれが病気が原因でなってることも理解してもらえないので、気を悪くする友達もいましたね。その話を外来で診察に行ったときに多田先生に話を聞いてもらっていましたね。

 私が脳の病気が原因で「わからない」という事を説明して伝えて、相手は理解をしたというんですが、理解してるようで理解してもらえていないことが多かったですね。10代で病気と言ったら風邪・インフル・コロナくらいですから、脳の病気の事を理解するのは難しいんですよね。だからお見舞いにはみんな来てくれるけど、来た友達同士でお話が盛り上がったり、バイト先の愚痴を言いあったりしてるんですね。だから置いてけぼりになっていることがよくありました。話を聞きながら私は「愚痴を言ってるけど、バイトできるだけええやん」と妬んだりしてしまう自分もいて、ちょっと悲しくなったりしていましたね。それを同じ病室のおばあちゃんたちに慰められるって日々でした。

 ―そばで見ていた多田先生は、若いからメキメキ回復していってる姿を見て、すごいなあと感じていたそうです。お見舞いにもたくさんの友達が来てくれるけど、若い子はこういった取り残され方が起こるのかと驚いたそうです。良くも悪くも周りがあまり理解してくれていない。いや理解できないんだなと感じたそうです。

 今は、病院で知り合った同僚と付き合っています。彼は交通事故で脳を損傷して復帰した経験がある人なんです。私の脳の障害や後遺症のことをすごく理解をしてくれていて、安心して一緒にいられる存在ですね。

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