粂川 博樹さん

私は、発症してから10年が経ちます。経営者としてのキャリアを築いてきましたが、私は単なる経営者ではなく、徹底してフリーランスの道を選んできました。30年以上の職業人生の中で、誰かに雇われていたのはわずか5年足らずで、その業種は一貫してIT業界です。

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IT黎明期からこの業界一筋

都市部に出て遊びたいという理由で東京の大学の法学部に入りましたが、元は数学と物理が得意な理系脳です。大学在学中もほとんど学校には行かず、塾講師のバイトばかりしていました。担当科目は英語から始まって、数学、そして全教科です。この頃から、私は、誰かにものを教える仕事は好きだったと思います。一浪して入った大学に5年通って、そんな中で今後どうやって働いて生きていこうと思った時に、ビーイング(求人情報誌)の『初めてでもできるプログラマー』という求人が目についたのです。これが、私とITとのなれそめでした。

卒業後に入社したのは、大手通信機器メーカーのOBが設立した従業員5人ほどの会社でした。オフィスは新宿の地下に老舗ゲイバーが入る雑居ビルにあり、時代はIT萌芽期であり、バブル崩壊前夜の1990年。この会社での最初の仕事は、指導者もなく、ほぼ独学でプログラム言語を覚えることでした。製品開発をするうちに顧客が自分の作ったものをどう使っているか気になりだして、営業畑にも足を踏み出しました。当時は、イスラエルでハードウェア開発をいろいろな会社が競争していて、まだインターネットも盛んでない時期だったので、実際に現地に行って、現地エンジニアから学ぶしかマーケティングの方法がなかったので、私も現地入りしました。

営業もマーケティングもできるエンジニアとしての経験を積んでいた私は、起業する知人に引き抜かれる形で、この会社を4年で辞めました。しかし、3人で立ち上げたこの会社は、私が再びイスラエルにマーケティングで向かっている間に、空中分解してしまいました。

起業したのは、自分で自分の稼ぎを上げたいという思いがありました。会社に勤めている限り、それはできませんからね。友人と起業した経験から、会社って自分で作れるものなんだとわかりました。会社はなくなっちゃったけど、依頼された仕事は抱えているままでした。ただし、もう会社勤めは嫌だなと思っていたので、エンジニアとして独立しました。私が29歳でした。

順調だった業績が、時代の流れで悪化。激務で倒れた。

起業した時は、企業内に自社サーバを設置してネットワーク構築をする需要が高まっていた時代でした。しかし、フリーランスのプログラマーはたくさんいる一方で、企業内ネットワークの環境構築ができるフリーの人材はほとんどいませんでした。営業は得意ではありませんでしたが、技術とフットワークを売りにした私は、30歳で改めて法人化しました。

90年代末になると、今度は企業内でIT教育の需要がものすごく高まってきました。もともと人に教えるのが好きだったので、事業をそちらにシフトしたのです。これが好評で、自分一人ではこなせず、IT講師を企業に派遣する業態にも展開し、結果、平均年商で5~7千万円、最高で1億を超えたこともあります。これは、私の自慢でもあります。

しかし、売り上げを伸ばしていた私の会社も、企業内教育の需要が徐々に衰退し、リーマンショックが襲い、一気に経営が厳しくなりました。そこで、私は社員をすべて外注化し、自身は日中に教育事業をやりながら、夜は大手企業を相手に流行り始めた仮想化技術のシステム構築の仕事に取り組むというダブルワークの激務に身を投じました。ようやく業績が上向き始めた東日本大震災直後の真夏、私は脳出血に倒れてしまいました。46歳でした。

自分は、ロボットになってしまうのではないかという恐怖

脳出血の後遺症で、右半身麻痺と、失語症が残りました。会社は、私以外にも3人のスタッフがいましたが、もちろん仕事の依頼は二度とこない。そんな中、私は、会社が相当ヤバい状況だということだけ認識していましたが、しばらくの間、何も考えられない時期がありました。

そして、入院中は、「今はなんとか自分の意識を保っているが、いずれそれがなくなって、ロボットや奴隷のように、人間としての権利を奪われてしまうんじゃないか。ぼーっとしてただ生きているだけになっちゃうんじゃないか」と、恐怖を感じていたのを覚えています。健康保険手帳も取り上げられて、代わりに障害者手帳が来る、そんなベルトコンベアに載せられたような気分でした。でもやっぱり、元の自分に復活したい。仕事に戻れるかわからないけど、諦めたくないという気持ちだけは、強く持っていました。

自分の意思を他者に伝達できない状況で、人としての尊厳と権利、自己決定権などすべてを剥奪され、他者の決定に唯々諾々と従わなければならない奴隷のような状況になるのではという、そんな恐怖と不安から逃れたい一心でした。

リハビリも支援もなかった

しかし、実際は、私は他者から自由を奪われたり、不本意な指示に従わされるどころか、身体と失語症に対する最低限のリハビリを終えたのち、あらゆるリハビリも社会資源もないまま、日常に戻されてしまいました。情報さえも、もらえませでした。

なんとか院内を歩行できた私は、「歩けるから帰りましょうか」という感じで、早々に退院です。退院後にどう生きていくか、仕事にどう戻るか。そういう相談や指導は一切なかった。退院して半年してから、市からケアマネージャーが付けられましたが、「これだけ日常生活ができるなら介護保険は無理です」と認定調査で言われ、結局、介護保険の制度は使わずじまい。

でも私自身はむしろ、「世の中には私より大変な障害を抱えた方がいるのに、何かを他者に期待してもいいのか?」と思っていたので、介護保険が無理だと言われても、なんとも思わなかったのです。だから、私は、自助努力以外を知らないまま、今日まで来ました。

唯一幸いだったのは、傷病手当の算定基準となる「倒れる直前の給与」が、事業の成績向上を反映させて、月額100万円ほどに上げたタイミングだったこと。それ以前は給与を10万円ほどに絞っていたため、この時期に倒れていれば、即収入の道が途絶えたでしょう。この僥倖によって1年半にわたり、病前給与の8割を受給できる猶予期間が与えられました。

まず考えたのは、今までのような仕事をするのは明らかに無理だということ。特に右手が麻痺してキーボードも打てない状況なので。これまで教育サービスをしてきた経験と、脳出血で倒れた経験を活かして、健康コンサルタントになろうとか思い、色々調べたりもしました。しかし、結果として思ったのは、成功するにはどの業界も生半可では無理だなということです。やっぱり俺はITでないと生きていけない。昔通りは無理だけど、一般の人よりはまだ分かっているところがあるはずだから、それでできることをやっていこうと決めました。

自分にはITしかないと腹をくくったが、ハードルは高かった

その時、病気になる前は、1日10万円で動いてきた人間だけど、1か月10万円でもいいから仕事をしようと決めました。その気持ちを、かつての友人である会社社長に告げ、発症から実に3年のブランクを経て、その友人の経営する会社に転職しました。

けれど、実際に仕事に戻ってみたら、いろいろ問題がありました。さすがに3年経っているので驚きはしませんでしたが、思っていたよりも障害が重かったと痛感しました。実はそこまでは、自分にある障害で不自由を感じるほどに負荷をかけずに、要は無理をせずに、生活していたのだと思います

転職先の企業は、企業向けにネットワークを構築する友人の会社で、システム開発の上流を担う業務は、私も病前に散々鍛えた畑です。しかし、私がエンジニアとして戻ったつもりが、会社が期待していたのは若いエンジニアの教育役でした。麻痺でスピードは落ちるけれど、プログラミングはできます。でもやっぱり、ことばがスムーズに話せない。相手が何を言っているかも、よくわからない。自分の専門分野にもかかわらず、専門用語が3つ入ると、3つ目から話が頭に残らない。自分が話したいことを組み立ててうまく話せず、何か相手に話す時も、日本語ではなく英会話のように、こっそり小さく独り言で言葉にしてからそれを相手に向かって繰り返す感じでした。

仕事の組み立ても、全体を見て何から手を付け、どんな順番でやるかが咄嗟に頭に浮かばず、頭が疲れると脳がシャットアウトしてしまい、何も考えられない、何もできない。それは落ち込みましたよ。日々、こんなこともできないのかとバカにされるのを常に恐れているような感じでした。

私が一番しんどく感じたのは、実務上の能力が落ちていることではなく、嫉妬でした。

傍で働いている友人の社長が、ほかの社員と違ってキラキラ輝いて見えるんですよね。罰当たりな考えですけど、それがどうしても満足できない。エゴですけどね。

私はそれまで、仕事が嫌だとか辛いとか思ったことがない。なぜなら面白いことしかしてこなかったから。楽しいから、おもしろいから、すべて乗り越えて来た。なのに、今は、キラキラしている友人を見ていて、心が苦しい。結果、私はこの会社で、勤めるってことができないと悟りました。自分の事業としてやっているのでなければ、興味をもってやれないと思ったからです。50歳を直前に控えた年齢で、障害の不自由を抱えながら、せっかく得た仕事を自分から捨てる。かなり勇気が要ることですが、その会社を去る決意をしました。

リスク覚悟で、再び起業したあと、人生が変わり始めた

会社を辞めるにあたり、次はプログラミングでも何でもいいから、自分でやろうと決めました。自分で考えたサービスを提案して、それでもお客さんが来なくて仕事がないのであれば、そんな時、この国には生活できない人を支える生活保護という福祉がある。やってみて無理なら、構わない。お金のために仕事をやるんじゃなくて、自分のやりたいことをやろう。そう思って、吹っ切ったのです。

再びフリーの立場に戻って半年ほど経った頃、フィリピンに行って、現地でエンジニアを育成してみないかと、お誘いが来ました。ここから私の職業人生は、再び大きく動き始めました。私は、倒れた後、失ったものの一つに英語力がありました。読み書きも難しかったのですが、話すことはさらに致命的に難しくなっていました。そこで、現地で教えるエンジニア志望者がネイティブ並みに英語力を持っていて、かつ日本語もある程度話せることを条件に、この仕事を引き受けました。もしかして、自分の英語力が復活するかもしれないという期待もあったのです。

フィリピンは私の妻の母国でもあり、心強さもありました。こうしてエンジニア育成のためにフィリピンに渡った私は、思いがけない回復を得ることになります。まず、渡航前までは足に装具が必要だったのに、装具なしで歩けるようになりました。期待した英語力の回復は狙い通りとはいきませんでしたが、日本語に回復が見られたのです。

業務中は日本語が通じるトレーニーとIT技術の会話をするので、それほど不自由ではありませんでした。エンジニアの教育は最終的には言語の問題ではないんです。理工系出身である程度素養が感じられる人を採用して、一緒にシステムを作りながらその動きや技術を学んでもらいました。

しかし、職場から離れると日本語が通じる人はいません。何をするにも英語での会話が必要になります。若い頃から家の中にじっとしていることができない性分に加え、海外に渡航すると、現地人の集まる場所に赴いてコミュニケーションをとるのが信条でした。方々に飛び歩いて、無理やりに英語で話す経験を重ねた結果、なぜか日本語力の回復が訪れたのです。

英語力は回復しなかったのですが、「英語は無理です。母国語(日本語)で勘弁してください」という態度で、なるべく日本語で話をしていると、慣れた日本語ならかなり使いこなせるようになっていました。話す力に自信がつき、頭に浮かんだ言葉をストレートに話せる!という感じになり、母国語に感謝!と思いました。

フィリピンで仕事復帰!

再び、法人を立ち上げる

この後、帰国した私は、失業保険が切れるタイミングである50歳の誕生日に、再び法人を立ち上げる決意をしました。資本金30万円の再起です。法人にしたのは、その方が仕事が取りやすいことを、これまでの経験から知っていたからです。手続きについては、過去の経験もありますし、当時サービスを開始したばかりだったクラウド会計ソフトの会社がソフトウェアの使用を条件に、登記などをサポートしてくれるオプションを付けていたので、活用しました。

実はフィリピンでのエンジニア育成を依頼してきた会社が、途中で倒産したのです。かく育成したエンジニアを、日本でデビューさせてやりたいという思いもありました。最初の売り上げは、倒れる前に講師をしていた企業でのサブ講師の仕事。次にはフェイスブックで安否を知った古い友人が持ってきてくれた非営利法人の既存システムの保守運用。徐々に取引が増えていく中で、ITに強かったことが救いだと思っています。取引先に対して、障害の理解はあまり期待していません。ITはもともと特殊な人材が色々いる業界で、私のような障害もそのひとつ。人間として何かできないことがあっても、技術さえあれば、という多様性の業界です。実際、最近ほかの業界の当事者の話を聞くと、IT以外の業界はこんなにきついのかと驚いています。」

止まらないこと

こうして私は新たに立ち上げた会社を今も存続させ、起業4年で念願だったフィリピン支社も設立しました。私は脳出血で倒れた後に、ほとんど止まっている時期がなく、ひたすら動き続けています。動き続ける私に引き寄せられるように、周囲には、手塩にかけて育てたフィリピン人エンジニア、アメリカ人エンジニア、イギリス人エンジニア、加えて高次脳機能障害当事者の仲間に、障害を持つ息子もという多彩なメンバーがいます。

生きている限り、止まらないでしょう。動き続けるのが好きだし、海外出張も好き。普通は、こんな障害があるのだから、結果がとんとんだったらそれで十分御の字だと思うのです。でも、それでは、私は満足しません。もっと、もっと次なるものを目指して走り続けたい。

たしかに、失語症があるから、言葉について、病前比較で今は65%ぐらいのスペックです。コミュニケーションのこまりごとはありますし、少しは寂しさもあります。けれど、怖くはない。私にとって仕事とは、楽しい修行です。病後の方が、大変なこともたくさんあるけど、楽しいし、うまくいっているような気がします。昔は、何でも自分でやっていましたが、いまは、一人だけでは何もできないとわかっています。だから、私が頑張るよりは、若いやつにチャンスを与えた方が、先が見えるという確信があり、育成に力を入れています。

「実際には若くない人でも、心が若い人であるかが大切です」これは、ジョン・F・ケネディの言葉です。この一文は、私が今の会社の起業直後にホームページに載せた言葉。その言葉に偽りなく、私は走り続けています。

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